理事長の中村嘉孝です。
ニーチェは『道徳の系譜』(岩波文庫、木場深定訳)の中で道徳観念について、「生理学的な解明や解釈を必要としている」と記しました。
そして、「あらゆる科学は今や哲学者の未来の任務のために準備をしなければならない。その任務とは、哲学者が価値の問題を解決すべきことを、価値の序列を決定すべきことを指すのである」と論じています。
このニヒリズムの大家の予言の通り、現在、進化心理学によって、道徳観念の起源が科学によって明らかにされつつあります。以前に述べた貞操観念の進化学的な説明もその一例でしょう。
他にも例えば、自らの危険を顧みずに溺れた人を助ける行為が、なぜ道徳的なのかということがあります。
ゲーム理論を用いて説明され、互恵的利他主義などと難しい言葉で呼ばれますが、要は簡単な話で、「お互いに助け合った方が集団全体として見たときに、生き延びて子孫を残す確率が高い」ということです。
そのようにして、人間の心の中に「良いこと悪いこと」という価値判断のプログラムが進化してきたわけですが、考えてみれば、「生殖のために進化してきた道徳観念が、生殖技術の倫理を問う」という奇妙なことになっているわけです。
生殖技術に限らず、現実の社会の倫理問題は複雑ですので、この原始的なプログラムでは対処できませんし、矛盾した判断になってしまうこともあります。
一方で、医療関係の倫理を理論的に考える生命倫理学という学問があります。それはそれで知的に刺激的ではあり、議論の整理には役に立つものの、実際の問題への解答となると、常識以上のものがあるとは、私は思いません。
しかしながら、この生命倫理は、代理母を認めるかどうかといった臨床の個別の問題だけではなく、おそらく医療政策、医療経済など、医療そのものの根本的な問題であろうと私は思います。