理事長の中村嘉孝です。
当院は不妊治療がメインです。一般的な婦人科の診療もしていますが、婦人科の中でも思春期の診療は、できるだけ専門家の受診をおすすめしています。
特殊な病気もあるから、専門の医師が診察するにこしたことはないというのもありますが、産婦人科医にとって、思春期のありふれた婦人科疾患を診ることは、別に難しいことではありません。では、なぜ、ためらうのかというと、思春期の性についての私の考え方が、「一般的な」考え方と異なるからです。
-性の正しい知識を与え、自分を大切にし、責任ある行動がとれるように教育する-、たぶん、それが「正しい」とされている考え方でしょう。学会などでも、そのような立場を当然の事として議論が進んでいきます。
しかし、「自分を大切にする」とは、どういう意味でしょうか。性感染症の知識を身につけ、中絶手術を受けなくてすむよう確実に避妊をするというだけのことなのでしょうか?
そして、「責任ある行動」とは、具体的に何のことでしょう?
性教育推進論者は、「旧態依然たる性道徳によって、性について語ることがタブーとされている。体を守るために、オープンに性を語り、正しい知識を与えるべきだ。」といわれます。
とすれば、性教育推進の話の道筋では、「安全安心な方法を覚えて、心置きなくセックスしなさい」という以上のことはないはずです。にもかかわらず、「責任ある行動」などと留保をつけるのはなぜでしょう。
他にも「主体的な判断」といったりする向きもありますが、これらは、何かしらリベラルな物言いでごまかしているだけで、結局は、貞操観念との折り合いのつけ方がわからないだけではないのでしょうか。
性教育推進論者が、伝統的な貞操観念を否定するのは、その背後に性の交換価値を見るからではないかと思います。ありていに言ってしまえば、「純潔の方が高く売れる」という意識が潜んでいることを嫌うからでしょう。それは女性の人格否定であり、到底容認できないということなのだと思います。
しかし、貞操観念は社会が恣意的に作り出した制度ではありません。竹内久美子氏の著書などでおなじみの方も多いと思いますが、生物学的、進化心理学的な根拠があります。きわめて大雑把に言ってしまえば、メスは自らの遺伝子を残すべく安売りせずに優れたオスを選び、オスは他のオスの遺伝子を持った子を養育することにならないよう貞操を求める、ということになります。まさに、貞操は性の交換価値であり、それが自然科学にとって素直な理解だと思います。
私自身は道徳的に優れた人間ではないので、貞操観念をことさらに強調するつもりはありません。夜の歓楽街で見かける、おそらく10代半ばであろう牝豹のような女の子たちを見ていると、そちらの方が、より自然な思春期の姿とさえ感じます。結局、性衝動も貞操観念も、いずれもが強固な生物学的な基礎を持ち、この矛盾の中を生きることも人生の一つに他ならない、ただそれだけの話だと私は思っています。
しかし、秩序ある社会が、建前として貞操を重視するのは、当然でしょう。守られるはずのない貞操だからこそ、一層、大切な理念とすべきだともいえます。その貞節なる社会というフィクションにとって、学校などでの赤裸々な性教育はそぐわないと思います。それはまるで、ドラッグをやってはいけないが、間違って命を落とさないよう、安全な吸引法を教える、というのと同じではないでしょうか。
とはいっても、これらは私の個人的な考えにすぎず、診察室で医師が医師として言えることは、技術的な話以外に何もないと、私は考えています。しかし、思春期の専門家たちは、それ以上に何か言うべきことがあると信じておられるようです。
「特に異常はありません。じゃ、お大事に。」中絶手術後の診察に訪れた子にこう告げて終わろうとしたら、一緒について来られたお母さんから厳しく叱られました。
「それだけで終わりですか?医者なら、色々と意見しないといけないじゃないですか。」
あまりにお怒りだったので、別室でそのカップルに意見する事になりました。
「若いからといってセックスしたり、妊娠したりすること自体に、医学的な問題があるとは言えないけどね。
むしろ、生物学的には自然なことかも知れない…。といっても、現代社会じゃ、そういう訳にもいかないかな。ほら、若いうちに、勉強したり、仕事を覚えたりしとかないと困るし…。だったら、避妊したらいいだけじゃないか、と思うかも知れないけど…。」
自分でも、一体、何をいいたいのか分からないまま、説教は終わりました。